浄土真宗親鸞会 名古屋

やわらか仏教入門

第7回 読経は死人のご馳走なの?

「お経」といえば、漢字ばかりで難しい、分からない。
でも分からないところが、どことなく有り難い、というのが巷のウワサ。

 死んだ人への一番のご馳走は読経だ、ともいわれます。

 以下は、どこかで聞いた、ある人の話……。

 来月は、亡くなった父の法事、お経をあげてもらわねば、と思い立った。やはり、短いよりは、長い方が供養になるだろう。外でもない大恩ある父の供養、精一杯のことをしたいものだ。
 だが、正直なところ、気になるのは、ちょっと頼りない財布……。そこで、隣近所に"お布施"の相場を聞いてみた。調べてビックリ、なんと、長いお経ほど、"お布施"が高いらしい。悩んだ末、さて、どのお経を頼んだか……。

 それはともかく、葬式や法事の読経は死人のためになるという信心は、世間一般の常識になっています。

 しかし、このような迷信を徹底的に打破なされたのが仏教を説かれた釈尊なのです。

 ある時釈尊に一人の弟子が、
「死人の周りで有り難い経文を唱えると、死人が善い所へ生まれ変わるという人がありますが、本当でしょうか」
と尋ねたことがあります。

 その時釈尊は、黙って小石を一個拾われ、近くの池に投げられた。水面に輪を描き、沈んでいった石を指さして、
「あの池の周りを、石よ浮いてこい、浮いてこいと唱えながら回れば、石は浮いてくるであろうか」
と釈尊は反問なされた。

 石は、それ自身の重さで沈んでいったのだ。人間もまた自業自得によって、死後の果報が定まるのだ。経文を読んで死人の果報が変わるはずがないではないか、というのが釈尊の教えです。だから、読経や儀式で死者が救われるという迷信は、もともと仏教にはなかったのです。

 それどころか、そのような迷信を打ち破り、生きている人を絶対の幸福に導くのが本当の仏教の目的なのです。

 また親鸞聖人は、その釈尊の真意を最も厳しく、開顕してくだされた方であるす。

 あの孝心厚い親鸞聖人が、「親鸞は父母の孝養のために、一遍の念仏も称えたことはない」と仰有ったのも、これら世間の根深い迷信を打破されたものです。
  しかし、このような真実の仏法を教える、素晴らしい指導者を持たない人たちは、大いに読経や葬式が死人のためになると宣伝し、僧侶の生活の糧にしています。だから、世間一般の根強い迷信となってしまったのでしょう。

 大体、このような迷信を信じている人たちは、お経はどうして成立したのかということをご存じないのです。

 釈尊の説かれた経典の名前には、「仏説」の語がついています。『仏説阿弥陀経』『仏説観無量寿経』『仏説無量寿経』といった具合に。釈迦牟尼仏が説かれたのですよ、ということです。お経は、釈尊が苦しみ悩んでいる人を幸福にするために説かれた法を、弟子たちが後世の人たちのために書き遺したものだから、死人に説法されたものは一つもないのです。

 また、生きている時でさえ聞けないものが、死んで聞けるはずがないでしょう。

 親鸞聖人の『正信偈』、蓮如上人の『御文章』、いずれも生きた人間に説かれたものであり、死人になされた説法でないことは、火を見るよりも明らかなことです。

 あくまでも、現在迷える人々を真実の幸福に導くための指針として、書き遺されたものであることを忘れてはなりません。

 

 では、葬式、法事や読経は無意味なことかというと、それはまったく、それを勤める人の心いかんにかかっている。
 厳粛な葬式を縁として、我が身を反省し、無常を観じて聞法心を強めれば、極めて有り難い勝縁となりましょう。

 また、法事もチンプンカンプンの読経のみで終わっては所詮がありません。読経の後で、そのお経に説かれている真実の教えを聞かせていただき、信心決定のご縁としてこそ意味があるのです。

 死んでしまえば、生きている人たちがどんなにじたばた騒いでみても、もはや、後生の一大事はいかんともすることはできません。

「命のうちに不審もとくとく晴れられ候わでは定めて後悔のみにて候わんずるぞ、御心得あるべく候」  (御文章)

 蓮如上人のお言葉を、深くかみしめていただきたいと思います。
 

おわり

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