浄土真宗親鸞会 名古屋

やわらか仏教入門

第5回 信心なんて古くさい?

「信心」という言葉には、ある一つのイメージがつきまとっているようです。

" 信心深い人"と聞いて、想像するのは高齢の人。

「信心?そりゃ、ワシの若い時は、よく寺に参ったもんじゃが、昔と違って今は、テレビやら、カラオケにパチンコと、娯楽が多いからなぁ……。若いもんは、そっちの方が、楽しいんじゃろ」
などと、信心といえば、寺参りのこと、外にすることがなくなって時間ができた時の楽しみの一つ、と思っている人が少なくないようです。

 だから若者は、
「信心なんて、そんな古くさいもの、私には必要ないよ」
と見向きもしないのでしょう。

 しかし、信心とは、字の如く、「何かを心で信ずること」。
 信ずるということは、言葉を換えれば、「たよりにする」とか「あてにする」「力にする」ということです。

 病人が、「お医者さんだけがたよりです」と言えば、医者を信じている、ということ。
会社で、「今度の仕事、キミをあてにしているよ」と言われたら、あなたは上司に信じられているといえるでしょう。

 妻は夫をたよりにし、夫は妻を支えとする。子供は親をよりどころとし、親は我が子が明かりです。

 信じているのは、人だけではありません。

「命が物種、手足息災なるこそいみじけれ(身体が丈夫なことが何よりだ)」
       (元禄時代)
と健康を信じている。逆に、
「命な惜しみそ(命を惜しむな)、名を惜しめ」
(命より名誉を重んじる武士の気風を表す言葉)
と、名誉をたよりにする人もあります。

「人間よりは金銭の方がはるか頼みになりますよ」
      (『金色夜叉』)
とは、金を力にしている人の言葉だし、
「金より愛の方が大事じゃありませんか」
   (『吾輩は猫である』)
と、愛に生きる人もいる。外にも、家や財産、社会的地位など、何かをあてにし、力にして、人間は生きています。

 だから、生きるとは、信じることといえましょう。
  なにも神仏を信じることだけが信心ではないのです。
  昔から、「鰯の頭も信心から」といわれる。つまらぬものでも信じていれば、その人の信心ですから、すべての人は何らかの信心を持っているます。

「信心」という言葉が『古くさい』というのは、軽率な先入観に過ぎません。すべのにかかわりのあることなのです。

 

 ところで、私たちは幸せになりたくて生きています。不幸は嫌だ、苦しみたくないと思っている人ばかりでしょう。 

 言い換えれば、幸福を求めて何かを信じ、生きているといえましょう。

 信じたものがいつまでも私を裏切らず、永続すれば、私はいつまでも幸せ。しかし現実は、なかなかそうはいきません。苦しみは、信じていたものに裏切られたときに、起きてくるのです。

 夫婦の悲劇は、信じていた伴侶に裏切られたときに起きてきます。
「ある女は心で、ある女は肉体で、ある女は脂肪で夫を裏切るのである」(三島由紀夫)
とは辛辣です。逆に妻は、
「理想的な良人!そんなものは世の中に存在しない。それは乾いた水、焼いた氷を探すわざにも等しい」(平林たい子)
と、こちらも手厳しい。

 夫婦そろうと、
「プロポーズ あの日にかえって ことわりたい」(残したいサラリーマン川柳 一位)となる人も。

 子供に裏切られた親。現代の「姥捨山」が、名前を変えて各所に存在するといいます。親が我が子を虐待、との報道をよく耳にします。親に裏切られた子供の心は、いつまでも癒えることはないでしょう。

「私の内心は、絶え間ない血みどろのたたかいの連続であった」とは、ガンを宣告されたある東大教授の言葉。最も信じていた健康を失った衝撃は、計り知れません。深く信じていればいるほど、裏切られたときの悲しみ、怒り、苦悩は大きいのです。

 すべての人は、何かを信じなければ生きてはゆけません。しかし私を裏切るものを信じていては、真の幸せにはなれないのです。

 盛んなるものは衰え、愛する者とは必ず別離の日が来る。"サヨナラ"だけが人生だ、という名句もあるように、一切は変わりゆきます。

 一番確かに思えるこの肉体さえ、焼けば一つまみの白骨。死に臨んでは、今までの人生が茶番に映るという。すべてが私を裏切ってゆくのです。

 では、幸せを求める私は、どうすればよいのでしょうか。

 金輪際、私を裏切ることのない、まことの信心を教えられたのが真実の仏法です。

 老いも若きも、まことの幸せに向かって進みたいものです。

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