浄土真宗親鸞会 名古屋

やわらか仏教入門

第4回 「唯我独尊」は思い上がり?

 お釈迦さまが、ご生誕の際に天と地を指さされておっしゃったと伝えられるのが、
「天上天下 唯我独尊」
です。

 多くの人は、
「この世でいちばん偉くて尊いのは自分一人である」
とウヌボレた言葉と思っているようで、自尊心が強い人のことを、「唯我独尊的人物」と評することがあります。もし
「唯我独尊」が、思い上がったタワゴトならば、敬して遠ざかるべきですが……?

 そうではありません。
  人間でさえ、
「実るほど、頭の下がる稲穂かな」といわれるように、立派な人ほど頭が低い。仏智を体得された釈尊ならば、なおさらのことです。
「唯我独尊」は、「私ひとりが尊い」と威張っておっしゃったのではありません。この「我」は、釈迦一人のことではなく、すべての人間のことなのです。

 老若男女・国籍・貧富を問わず、万人がひとしく"尊い使命"を持って生まれてきたと教えられたのが仏の教えです。人間の崇高な使命を、ご生誕の逸話で明らかになされているのです。

 

 では"尊い使命"とは何か。

「使命」とは、命の使いどころ、といってもいいでしょう。

「人命は地球より重い」といわれます。果たして、何のために命を使えば、「地球よりも重く尊いわが命であった」と大満足できるのでしょう。

 

 昔、ある国王が、「太陽が出ている間に、走り回った土地を、その者に与える」という、フレを出した。
 一人の男が、早速志願した。彼は太陽が地平線に顔を出したのを合図に、出発点の丘を勇躍して飛び出した。
 太陽が沈むまでに、出発点へ帰らなければ、一日の努力は水泡になる規定である。一歩でも遠くまで足を延ばして、広い土地を得ようと、彼の力走はまったく死に物狂いであった。
 その効あって、ようやく膨大な土地が手に入る出発点に到着すると同時に、彼はバッタリ倒れ、ついに不帰の人となってしまった。
 王は、家来たちに命じて、その男を穴を掘って埋めさせ、
「この男には、あんな広大な土地はいらなかったのだ。自分の体を埋める土地さえあればよかったのに」とつぶやいた、という話があります。

 すべての人間は、限りなき欲望に引きずられて命を使い、生きるまま死に向かっている。仕事に生きて社会に貢献し、世に名を残しても、家庭に生きて愛児を育て、幸せに恵まれようとも、どのように生きたところで私の命は刻一刻、死へ、破滅の方向へと、今まさに疾走しています。

「まことに死せんときは、予てたのみおきつる妻子も財宝も、わが身には一つも相添うことあるべからず」(御文章)

 どんなに愛しい家族も、汗と涙で獲得した金や財産も、生きている時に手にしたすべてのものは、臨終に一つ残らず置いていかねばならないと蓮如上人は教えられています。

 裸で生まれてきた人間が、人生の一切の虚飾をはぎ取られ、丸裸でこの世を去っていく。独生独死独去独来が人の世のならいです。この命のどこに、尊い輝きがあるというのだろう。人間は、なぜ生きるか、生きねばならぬのか。

 釈尊は仰せです。

 一切が滅びゆく中で絶対に滅びざる真実の幸せを求め、獲得してこそ、「人間に生まれてきてよかった!」の大満足を得る。これぞ人と生まれし所詮であり、人生の目的といえる唯一の"尊い使命"であると。その幸せに生かされるには、大宇宙最高の仏、本師本仏の阿弥陀仏一仏に向かいなさい、と声を大に叫ばれているのです。

「すべての人を 絶対の幸福に必ず助ける」とお約束なされている阿弥陀仏に救い摂られた時、苦しみの根元が抜き取られ、晴れて大満足させられる。この幸せの身になることが、人間の最も尊い目的だと教えられたのです。

 ひとり家路を急ぐ夜、見上げれば空には満天の星。砂粒よりも小さく見えるかの星々も、おのおの雄大な世界を持ち、それが集まって宇宙を形づくっているという。ならば大宇宙から見れば地球はまさに星くず、その中にうごめく私は、なんと卑小な存在なのか。悠遠の歴史と比べるまでもなく、なんと人生の短いことだろう。そんな人の命が大宇宙より重いといえるのは、果たすべき使命の重さゆえであります。

「天上天下 唯我独尊」

 2600年前の大宣言は、崇高なる人生の目的を明示し、古今に輝く光彩を放ち続けているのです。

>> 第5回 信心なんて古くさい?

>>ページのトップに戻る


Copyright © 2012 浄土真宗 親鸞会 名古屋 All Rights Reserved.