第3回 「菩薩」ってどんな方?
「菩薩」と聞いて、皆さんはどのようなものが心に思い浮かびますか。
道端で、川べりで、山の中にも見かける赤い前かけをした、あの石の像。
雨に打たれても、風に吹かれても、じっとそこに立ち尽くす。寒くてかわいそうに、と冬には手作りの着物を着せ、帽子をかぶせる人もあります。
食事も取らず、トイレにも行かぬ、黙然と路傍にたたずむ石像が菩薩さん、と勘違いしている人が多いのです。
菩薩とは菩提薩た(ぼだいさった:「た」はつちへんに垂)の略です。
「菩提」とは、インドの古い言葉を漢字で表したもので、本当の幸せのこと。「薩た」は「求める人」のことですから、菩提薩た、略して「菩薩」は本当の幸せを求める人といえるでしょう。
「幸せになりたい」と思わぬ人はありません。ならば、一体何が私を幸せにしてくれるのか。人生いろいろ、種々の思いを抱いています。
家族の幸せが私の幸せ、と早朝から深夜まで仕事に精出す。子供のために、と食費を切りつめ、授業料や下宿代を送って大学に行かせたが、遠い都会でそのまま就職、結婚すれば盆と正月しか顔を見せない。孫の写真を見ては、早く休みがこないかと、ため息をつく。
「這えば立て 立てば歩めの親心 わが身につもる 老いを忘れて」
子、孫は日一日と成長していきます。帰省してきた孫を見て、
「ちょっと見ぬ間に大きくなった」と喜ぶままが、わが身も日々老いています。老いの忍び寄る足音は極めてひそやかで、普段、自分にだけは聞こえないことが多いようです。最近、太りぎみのおじさん、新聞を読みながら、「このごろの新聞の活字は、昔より小さくなったんじゃないか?」と独り言。息を切らせて駅の階段を上りつつ、
「階段が昔より高くなった!」と怒ってみたり、「最近の電話は音が悪い。相手の声が聞こえないじゃないか」と受話器にあたる。
果てはだいぶ出てきたお腹を眺めて、「どうもベルトが縮んだらしい」などなど……。
思い当たる節がある方は、お年を取られたということです。他人事と笑っている方にも、「このことだったか」と分かる日がやがて来るかもしれません。
老いは目や耳、足腰、体の中からも確実に近づいているのです。
人生の終着駅が見え隠れする熟年に差しかかり、来し方行く末を嘆く声は巷にあふれています。
仕事に追われてここまで来たが、定年で家に帰れば居場所がない。この先何を楽しみに……と夫。主人と子供の世話を焼き、姑に尽くしてきたけれど、私の人生こんなはずではなかったと、離婚届を温める妻。
幸せになりたくて、様々なものを追い求めてきた。だが、金持ちである、財産がある、地位がある、健康である、名声が高い、豪壮な邸宅に住んでいる、という事実は絶えず変化します。大きく変化するか、少しずつ変化するかの違いだけで、この世に変化しないものは何一つありません。
金を得たという事実も、健康であるという事実も、地位名声を得たという事実も、すべてが、次の瞬間には崩壊につながっているのです。
一体、何を得れば満足できるのでしょうか。
すべての人がいちばん知りたい本当の幸せを教えられたのが、世界最高の偉人・釈尊です。
お釈迦さまは、
「人身受け難し、今已に受く」
とおっしゃり、仏教を聞き抜けば、「人間に生まれてきたのは、これ一つのためだった!」と、ほかに比べるものなき無上の幸せに大満足できますよ、と教えられています。
仏教に明示されているまことの幸せを菩提といい、求める人を薩たというのですから、菩提薩た(菩薩)は、真実の幸せを求め、真実の仏教を聞き求める人のことです。
観音、勢至、弥勒や地蔵なども菩薩といわれますが、それら特別な方だけを「菩薩」というのではありません。
「幸せになりたい」と今、真実の仏法を求めている方ならば、皆「菩薩」なのです。
うれしいことは喜ぶし、悲しい時は涙する。食事も取れば、トイレにも行く、風呂にも入る。老若男女を問わず、国籍も貧富も問いません。本当の幸せに向かって進む人は、皆「菩薩」なのです。
次回 >> 第4回「唯我独尊」は思い上がり?
