浄土真宗親鸞会 名古屋

やわらか仏教入門

第2回 「さとった」とはいうけれど……

 物事に淡泊になったことや、アキラメたのをサトリと思っている人がいます。

 アキラメる……どうも響きが悪い。国語辞典によれば、
「望んでいることが実現できないと認めて、それ以上考える(する)ことをやめる。『諦めムードに包まれる』」
などとある。あまりよい意味では使われないこの言葉、実は仏教に由来しています。

 諦観と書いてアキラカニミルと読む。「諦める」本来の意味は、真理を明らかに見ることをいい、いわゆるアキラメたこととは、まったく違います。さとりを開くとは、真理が明らかになることなのです。

 さとりと一口にいっても、低いさとりから高いさとりまで52の階程があり、これをさとりの52位といいます。52段目を仏のさとり、仏覚といい、最高位だから無上覚ともいわれています。高いさとりを開くほど、大宇宙の真理が明らかになってきます。

 山登りにたとえると、ふもとの里にいる時は、木や建物に邪魔され、ろくに景色も見えませんが、中腹に来れば大抵のものは見渡せる。だが反対側まで見通すことはできません。頂上に立って初めて、360度、全景はるかに一望できるのです。

 相撲取りにも序ノ口から横綱まで、細かい区別があります。さとりも一段違えば人間と犬猫ほどの違いがあるといわれます。人間世界をどれだけ説いても犬や猫には理解不可能でしょう。それが一段の違い、というのですから、52段の仏覚は、想像も及ばぬ広大無辺な境地なのです。

 相撲界に入る者は皆、横綱を目指すように、仏道を求める人は皆、仏のさとりを目指します。

 修行は峻烈を極め、完遂せねば自害する、と短刀を懐にしての行者もあります。

 中国の僧侶・達磨は、面壁九年といわれ、壁に向かって座禅を続けること9年、ために、手足が腐ったと伝えられています。それほど厳しい修行に生涯励んでも、仏覚までは、なおほど遠い。

 

 肉体を酷使するだけでなく、並々ならぬ精神の鍛練も要求されます。

 華厳宗屈指の高僧といわれる栂尾の明恵は、生来雑炊(ぞうすい)が大好物。
 ある日、弟子の一人が特に念入りに雑炊を作り、師の居間へ持参した。机に向かって書見していた明恵は、「おお、今日は雑炊のごちそうか」と子供のような笑顔で早速、膳に向かって箸を取り上げた。
  ところが、雑炊を一口すすった瞬間、眉がピクリと動き、何かのどにつかえて、のみくだしかねているような様子である。唐突に立ち上がり、傍らの障子のさんを指先でなぞったと思うと、ホコリを集めてパラパラと湯げの立つ雑炊にふりかけた。二、三度それを繰り返した明恵、黙々と箸を動かし、何の感動も示さずに食事を済ませた。不審げな弟子に向かって言ったという。

「実は、私はおまえが心を込めて作ってくれた雑炊を口にした時、あまりのおいしさに感嘆した。瞬間、身体の一部に、うまい食べ物に対する執着が、ヘビが鎌首を持ち上げるようにムラムラと起こってきた。雑炊を作ってくれた親切心だけを味わえばよいのに、ついに味覚のとりこになろうとした私は、実にあさましい限りだ。だから慌ててホコリを入れ、せっかくながら、味を消して食べたのだ。これでやっと口先の誘惑からまぬがれることができた」

 何十年の修行の努力も一瞬の気の緩みで、もろくも水泡に帰す。さとりを求めるとは、かくも難しいことなのです。

 お釈迦さまは、達磨や明恵とは比較にならぬ厳しい修行をなされ、さとりの最高位を極められた地球上唯一のお方ですから、「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」といわれています。大宇宙の真理を明らかに知られた世界最高の偉人・釈尊が、全人類救済の一本道を教えられたのが仏教です。

 前回も記したとおり、仏を死人と誤解している人が多いようですが、もし死にさえすれば仏になれるのなら、どんなに楽なことでしょう。古来から、あまたの僧侶は皆、つらい修行などせず、さっさと死ぬはずではありませんか。命がけで修行すること自体、意味をなしません。

 死人が仏?
 そんなことを聞かれたら、お釈迦さまは、きっと悲しまれるに違いありません。

>> 第3回 「菩薩」ってどんな人?

>>ページのトップに戻る


Copyright © 2012 浄土真宗 親鸞会 名古屋 All Rights Reserved.